嘘の慣性力_原発事故

 中部大学の武田邦彦教授は、昨年の震災によって引き起こされた福島第一原発の事故についても、「嘘の慣性力」が作用していると分析されています。


1.地震で原発は壊れない?

 これまで、我が国の原子力開発においては、安全神話があり、「地震で原発は壊れない」という嘘がつかれ、この嘘が慣性力を持つことになります。原発は壊れないというのが何故嘘かというと、2007年7月16日に震度6強の揺れを記録した新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発は、壊れたからです。何をもって壊れたというか、定義が明確にはなっていませんが、昨年の東日本大震災においても、東日本に位置する原発及び火力発電所は、ことごとく壊れたのだと武田教授は主張されます。


2.福島第一原発は津波で壊れた?

 震度6程度の地震では絶対に壊れないことになっている原発が、福島では何故やられたのか? その問いに対して、原発関係者がついた次の嘘が、福島第一原発は地震では壊れなかったが津波で壊れたのだというものです。しかし、武田教授の示す現地の航空写真で見る限り、正面から防潮堤を乗り越えてきた津波で、海抜40メートル程度に位置するタービン建屋はほとんどやられていません。正面の津波の高さは15メートル程だったそうで、これがタービン建屋の後ろに位置する原発にまで直接届いたとは思えないのです。それでは、福島第一が水素爆発を起こした原因は何だったのか、それは、正面からの津波ではなく、防潮堤のない側面や後背から回り込んできた浸水の影響で、地下一階にあった電源が使用不能になったからだと武田教授は主張されています。

 これが真実だとすると、正面の防潮堤をいくら高く改修しても今回の事故は防げなかったことになります。このあたりの真実の解明が非常に重要ではありますが、「地震で原発は壊れない」という嘘の慣性力が止められないと、なかなか話は進みそうにありません。福島第一の事故から既に一年以上が経過しているにもかかわらず、事故の正確な分析結果がいまだに出されてこないのは、原発を冷却する作業が続いていてそう簡単に原子炉にまで近づけないことの他に、嘘の慣性力が働いていることもその一因であるのかもしれません。


3.やらせメールも嘘の慣性力?

 こうして見てくると、原発の説明会などにおいて見られたやらせメール事件なども、「嘘の慣性力」が働いた事例としてとらえ直すことができ、この慣性力が働いてしまっている事象については個人の力で止めることが非常に難しいということができます。
「ガリレオ放談 第18回 原発の最初の嘘」

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嘘の慣性力_地球温暖化

 福島原発事故の発生以来、その発言を傾聴するようになった中部大学の武田邦彦教授が、「嘘の慣性力」という演題で、何回か動画を上げておられました。面白い内容なので、要点をまとめてみました。「嘘の慣性力」とは、国家や国際社会などの大きな共同体で、社会的な嘘が一旦流布されてしまうと、その嘘が強力な力によって止められない限り、嘘に嘘が積み重ねられて、あたかも物理学の慣性の法則が働いているかのように止まらなくなる現象を指します。

 武田教授は、「嘘の慣性力」の具体例として、お得意の地球温暖化を取り上げておられます。


1.北極の氷が解ける?

 まず、北極の氷が解けているのではないかという最初の嘘が語られました。そして、その嘘は、近年確かに冬の寒さが緩やかになっている、逆に夏は猛暑になっているのではないかという経験的な感覚と合致したために、事実と信じられるようになっていきます。しかし、真実は、北極海が毎年3月に全面結氷し、夏になると年によるばらつきはあっても一定程度解けるという現象にほとんど変化は見られていません。


2.海面の上昇?

 こうして、嘘の慣性力が働くようになると、次の嘘が語られるようになります。すなわち、北極の氷が解けると海面が上昇するのだと。ところが、氷と水は不思議な性質を持っています。普通の物質では、固体は液体よりも密度が濃いというか、同じ体積ですと液体の方が質量が軽くなるものなのですが(これは物質の基本単位の結合の仕方の問題なので、感覚的に分かります)、氷と水の場合だけは、固体の氷の方が質量が軽くなるのです。だからこそ、氷は水に浮き、そして、浮いて水面に浮かび上がっている部分が水よりも容積が増えた部分と言えます。従って、氷が解けても海面は上昇しないという結論が、初歩的な物理学から導き出されてきます。


3.南極の氷が解けて海面上昇?

 嘘の慣性力は、このくらいでは止まりません。北極とくれば、次は南極です。そして、なぜ南極の氷が解けるのかと聞かれれば、温暖化の影響で気温が上昇しているからだということになります。しかし、ここで注意すべきは、気温が上昇しても氷点下である限り氷は解けないということです。氷が解けるのは、融点を超えて気温が上昇したならばという条件付きであって、氷点下40度から氷点下30度に気温が上昇しても氷は解けないというのです。


4.珊瑚礁が沈む?

 海面上昇で珊瑚礁の島ツバルが沈むというのは、誰かの講演会で写真パネルとともに見聞きしたことがあります。あれを見せられると、温暖化→海面上昇、島国の日本も他人ごとではないと信じ込んでしまいます。しかし、その原因は温暖化で北極や南極の氷が解けるという嘘の積み重ねから導き出されているとすると、他の原因を検討することもしないで、地球温暖化の影響であると性急に結論付けているのは誤りである可能性が高くなっているのではないかと思われます。
「ガリレオ放談 第17回 始まった嘘は止まらない」

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ロボット・アニメと家出に関する考察

 今日のRobot Animeの隆盛の礎を造ったのは、何といっても70年代後半の「機動戦士ガンダム」と90年代半ばに放映された「新世紀エヴァンゲリオン」です。ただ、 両作品は人類の進歩・進化について肯定的か否かにおいて、正反対の立場であるように思えます。いうまでもなく、「人の革新たるNew Type」という概念が物語の主題の1つになっているガンダムは、肯定派であり、一方、エヴァンゲリオンでは、原作者の庵野秀明氏が進化論を否定した宇宙人降下説をとることからして、人の進歩には懐疑的な立場なのではないかと推測されます。

 この辺りが、同じようなウジウジ型主人公ながら、ガンダムではアムロ少年の成長していく物語が描かれたのに対して、碇シンジはいつまでたっても馬鹿シンジだった所以のように思えてなりません。

 面白いのは、この2作品に続くRobot Animeの代表作と言ってもよい作品群で、人類の進歩・進化について肯定的な立場と思われる作品は、ことごとく主人公の少年が家出します。「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイは、ブライト艦長に殴られたのをきっかけに日頃の不満を爆発させて家出します。「殴ったね。親父から殴られたこともなかったのに。。。」とか何とかほざくあの場面です。その後、アムロは、ランバラル率いるジオンの遊撃部隊との出会いなどを経てWhite Baseに帰って来るのですが、これは、少年が成長していく上で絶対に乗り越えなければならない父性という壁とそれを乗り越えて成長してゆく過程とを象徴する出来事と解釈できます。

 「交響詩篇エウレカセブン」のRentonは、自分自身が成長途上のためにより幼稚で兄貴分的な父性のリーダーであるHollandにEurekaをめぐる確執で殴る蹴るの暴行を受け、肝心のEurekaからは冷たくされたと思い込み家出します。Beams夫妻との出会いと別れなど、良い意味でのガンダムのパロディーを完璧に描き切った家出譚に仕上がっています。「蒼穹のファフナー」の真壁一騎も幼い頃友人を傷つけたために植えつけられた「消えていなくなりたい」というトラウマに加え、ファフナーで戦うことの意味を見失って、人類軍のスパイ由紀江にそそのかされて家出しますが、捕えられた人類軍モルドヴァ基地において自らの自我を見出し、新しく生まれ変わったFafner Mark Sein引っさげて竜宮島に帰還しています。

 一方、同じガンダムでも、今世紀に入ってから制作された「機動戦士ガンダム Seed」では、主人公キラは、家出しません。地球連邦と宇宙に移住したCordinatorと呼ばれる人々との戦争を描いた点は、1年戦争時のガンダムとよく似た設定です。しかし、Cordinatorとは、遺伝子操作によって人為的に生み出された人々で、これを果たして進化と呼べるのか、ラスボス的な人物が、実は人間のクローンであったことなどからして、作品は諸手を挙げて進化を肯定しているわけではなく、むしろ否定的、少なくともかなり懐疑的なように受けとめられます。

 ちなみに、現在放映中の「機動戦士ガンダム AGE」は、ガンダム自体が進化するという進化・発展に絶対的な信頼を置いた思想に立脚しているように見受けられます。主人公についても、主人公の少年の成長どころか、アスノ家3代にわたる息の長い成長の物語です。不況の長期化、少子高齢化、その上に大震災で閉塞感も窮まった我が国において、その反動とでも見ておくべきなのでしょうか。このあたり、Robot Animeも時代を映す鏡なのかもしれません。

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大相撲を楽しむ_稀勢の里

 新大関稀勢の里については、素質には恵まれていますが、ただ気の荒いだけの悪役力士と当初は思い込んでいました。稀勢の里が面白いと思い始めたのは、やはり横綱白鵬の連勝記録を阻止した一番からです。いまや日本人力士の中で白鵬関と互角に戦える力士というだけで、その存在価値は十二分に発揮されます。稀勢の里関の強さは、恵まれた素質と豊富な稽古量に支えられた身体能力の高さと突き放しても組んでも取れる型にとらわれない相撲の柔軟性にあると見ています。ここぞというときの「がぶり寄り」と型がある程度完成している同僚大関の琴奨菊関とは対照的です。

 さらに面白かったのは、昨年九州場所千秋楽の琴奨菊戦において当事者の稀勢の里関、琴奨菊関及び相撲協会が見せたその対応です。まず、相撲協会、この対応はひどくセンスにかけるものでした。稀勢の里を早く大関に昇進させて日本人大関をもう一人作りたいという思惑と、八百長を連想させる要素はことごとく排除したいというなますを吹くような根性からか、対戦当日の午前中に稀勢の里の大関昇進を事実上発表してしまいます。しかし、慣例上、稀勢の里関の大関昇進を決定づけるためには、九州場所の11勝目、即ち千秋楽での対琴奨菊戦の勝利が必要だったわけで、協会は自ら慣例の例外をまた一つこしらえてしまったわけです(もちろん、これまでも、より少ない勝利数での大関昇進の例は多々あるようですが...)。それ以上に、相撲協会が分かっていないのは、新大関でこの場所に臨んだ琴奨菊関が、この一番に大関の意地を優先するか、同僚の昇進がかかった一番に果たして全力で勝ちに行ってしまって良いのかという心の葛藤を抱えながら、どのようにこの大一番に臨むかという相撲観戦の醍醐味を端から奪ってしまったことでした。

 この相撲協会の極めて無粋な計らいによって、元々素直な性格の琴奨菊関は、もはや何のためらいもなく、平常心でこの一戦に臨むことになります。一方、稀勢の里関は、琴奨菊関を苦手としており、勝ちたい、勝って11勝目を上げて、誰にも文句を言わせない形で大関に昇進したいという気持ちが強かったようです。結果は、美空ひばりの「柔」さながら、稀勢の里関の完敗に終わります。ただの気の荒いだけの力士ではなく、意外にいろいろなことを考え込んでしまう型の力士であることが、非常によく分かった一番でした。この一番のせいで、大関への昇進がすっきりしたものでなくなったこともあり、稀勢の里関は、近頃の慣習として昇進を受ける際に力士が発することになっていた四文字熟語に一切言及していませんでした。そんな格好つけられるような昇進ではないと、本人も自覚していたのだと思われます。

 そして、心機一転活躍を誓って臨んだ両国国技館での初場所において、新大関は終盤に入っても1敗で優勝戦線に踏みとどまる奮闘ぶりで、苦手の琴奨菊戦を迎えます。対する琴奨菊関は、ここに来て大関昇進に伴うもろもろの疲れが出てきたのか、それとも研究されてきたせいなのか(多分勝てなかった理由はこちらでしょう)、連敗で勝ち越しさえ危うい不調の場所でした。しかし、ここで、稀勢の里関の採った作戦は、立ち合いで変わってはたく、大関としては姑息な作戦でしたが、不調の琴奨菊関は脆くも前に倒れてしまい、勝負は一瞬にして決してしまいます。この時点での稀勢の里関の選択は、優勝戦線に残ることを最優先し、苦手の琴奨菊関との真っ向勝負を回避するというものでした。新大関が横綱白鵬でさえも真っ向勝負で破ることができる「光」の側面と、苦手力士に対してはこのような姑息な手段も躊躇なく使うという「影」の部分を持ち、その狭間で揺れ動いていることを象徴する一番でした。

 残念ながら、琴奨菊戦には勝利したものの、この後連勝はできずに優勝戦線から脱落して、新大関初優勝の夢は露と消えます。しかし、稀勢の里関という力士の本質は、相撲の型においても心のあり様においてもいまだ揺れ動いている未完の状態にあり、この揺れを克服してこそ、その真価が発揮されるということがよく分かる九州場所から初場所にかけての出来事でした。白鵬関が昭和の大横綱双葉山の相撲を範にして自らの真価を手繰り寄せたように、新大関にも何かをきっかけにして止揚を計ってもらいたいものです。そういう意味で非常に面白く、これからが楽しみな力士ということができると思います。

 ところで、プロ野球界は、我が国の貿易収支の改善に貢献しようとしたのか、球界の至宝である北海道日本ハムのダルビッシュ有投手を5170万米ドル(40億円)で輸出すことになりました。国際化して海外から次々と人材が押し寄せ、Wimbledon化する大相撲とは異なり、人材の大リーグ流出に歯止めがかからない状況は、非常に厳しいと言わざるを得ません。今季からは、昨季までのプロ野球の最大の醍醐味とも言えた名投手ダルビッシュの投球も観られなくなってしまいます。しかし、この時期のダルビッシュの渡米には、杞憂に終わってくれればよいのですが、彼自身にはどうすることもできない外的な不安要素が付きまとっているように思われます。無事に活躍できる環境が続いてくれることをひたすら祈るばかりです。

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大相撲を楽しむ_横綱白鵬

 昔々「巨人、大鵬、玉子焼き」という言い回しが人口に膾炙していた時代の残滓に引っかかっているため、私にとってプロスポーツと言えば、野球と相撲を意味します。最近は、どちらも往年の面影が無くなり、人気凋落を競い合っているようですが。特に、大相撲は、賭博に八百長疑惑の顕在化など最悪の醜聞が打ち続き、落ちるところまで落ちた感があります。

 しかし、落ちるところまで落ちた最近の大相撲には、意外と見るべきところがあるというのが隠れ相撲好きの個人的見解です。小生の一番お奨め力士は、何といっても白鵬関です。ところで、アスリートといわれる人たちは、その精神性において大きく2種類に分かれるような気が致します。一つは、その性向が「善」であれ、「悪」であれ、ブレがなく素直で真っ直ぐな型の人たちです。相撲に対する姿勢が真っ直ぐで、親方に言われたことは素直に聞き入れて伸びてきた感じのする「善」の代表が、琴奨菊関であり、逆に、自身の身体能力と信念に絶対的な自信を持っていて、何があっても揺るがなかった「悪」役が元横綱の朝青龍関でした。この型のアスリートは、強くなるのが比較的順調で、ここぞというときにも比較的平常心で強さを発揮しています。水泳の北島康介選手などもこの型に属するアスリートだと思われます。

 もう一つの型は、「善」と「悪」の間で悩み、迷いがちな性向を本質的に持っているアスリートです。恐らく、横綱白鵬関と新大関稀勢の里関が角界では、この型ではないかと思われます。白鵬関は、横綱昇進後も同郷の先輩横綱である朝青龍関をなかなか凌駕することができず、敗れた後にさらに突いてきた朝青龍関に腹を立て、土俵上で殴り合い寸前のところまでいく事態まで引き起こしました。たしか、この一番の前後くらいから、白鵬関は、朝青龍関の揺るがぬ自信に対抗するためだったのか定かではありませんが、昭和の大横綱双葉山の相撲を当時のVTRを見て研究し、範に仰ぐようになります。

 双葉山の相撲とは、一体どのような相撲だったのか、不滅の連勝記録「69」の達成者である双葉山は、決して待ったをかけなかったといわれています。これは、単なる横綱としても矜恃というものではなかったと想像します。おそらく、双葉山という力士は、武道でよく言われる「後の先」を完成させていたのではないかということです。「後の先」、即ち、相手が仕掛けてきて、そこから先では相手が戦法を変更することができなくなる瞬間、かつ、それ以上待つとこちらが出遅れて相手に押し切られてしまう一瞬に、相手の手の内を完全に見切って立つことです。「後の先」ができれば、確かに待ったなどかける必要性は大幅に減ります。白鵬関の「後の先」は、まだ未完成のようで、通常は「先の先」で立っているようです。今場所、優勝を逃すきっかけを作ったとも言える一番が鶴竜戦であると考えますが、正にこの一番で、横綱が珍しく「待った」をかけて、その後の仕切り直しの一番で鶴竜関に完敗したからです。また、千秋楽の把瑠都戦は、「後の先」で立ったかなという気がしました。

 もう一つ、双葉山関の特徴は、組合った相手にとって横綱の重心や力の出所が分かりづらいような身体の使い方をしていたと伝えられることです。今思い出すに、負けない横綱大鵬関の身体の使い方がこれに近かったのかもしれません。白鵬関も、ムキムキの筋肉は忌み嫌い、柔らかくしなやかな筋肉ということを言っており、力を分散させたり、身体を割って使う古武術のような身体の使い方を意識していることが伺えます。日本人でさえ、69連勝以外のことを忘れ去っていた大横綱を現代に甦らせてくれた横綱白鵬は、蒙古人であるとか日本人であるとかは関係なく、屈指の名横綱に数えられてしかるべきだと私は思っています。双葉山の言を真似て「我木鶏たり得ず」という人はいましたが、白鵬関に限って言えば、その程度の次元ではないということです。

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新年のお慶びを申し上げます_2012


新年のお慶びを申し上げます

 

 兎年の昨年は、西側世界全体が飛躍の年どころかバンジージャンプしてしまったような一年でありましたが、大震災と津波による被害を被った我が国においても、これからの数年間は、その国力と叡智が試される試練の時になると思われます。

 そんな中、現政権は、遅れに遅れているようにしか見えない被災地の復興に注力するそぶりも見えず、TPP騒ぎで国論を2分し、「社会保障と税の一体改革」と称して消費税の増税を大急ぎで進めています。挙句に、安全保障上最重要課題の沖縄米軍基地問題は手付かずのまま、来年に持ち越されました。

 おそらく、野田政権は来年前半のどこかで倒れ、そうなったときには、総選挙の可能性が急速に高まってくると予想しています。その根拠となる、野田首相のかなり致命的な勇み足がこれです。こんなことをしていては、無理をしてObama大統領の顔を立てたTPP協議参加表明の意味など吹っ飛んでしまうのでしょう。
中国国債購入で合意=円・人民元の貿易決済も促進―日中首脳会談_12月25日

 また、消費税を2014年に8%、2015年に10%まで引上げるという民主党の増税素案が昨年末に一応まとまったようです。このことが、経済にどういう影響を及ぼすのかということですが、10年以上にわたるデフレ経済に国民はすっかり慣れてしまっていると考えるべきです。その結果、駆け込み需要でインフレ気味に振れる可能性は非常に低いといわざるを得ず、むしろ、デフレが続くものと予想して行動するため、当面デフレがさらに深刻化するだろうと考えるのが妥当な線です。

 龍の年の今年は、総選挙で正しい一票を投じることを始め、「日本の洗濯」につながるような行動を通じて、国及び地域社会に少しでも貢献していきたいものです。本年も、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 
 二〇一二    元  旦

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Globalizationと対峙しているもの

1.Globalization下の米国

 冷戦が米国の勝利で終わった後の1990年代、米国は民主党のClinton大統領の時代であり、IT革命を根拠にしたニューエコノミー論がもてはやされ、また、IT革命をネタに株価の急騰とそのことを主な拠りどころにした金融資本主義が絶頂を迎えました。規制緩和で行政からの経済活動への介入を極小化することを是とする新自由主義がもてはやされ、IT革命による通信技術の革新及び金融資本主義の強化から、もともと多国籍化の傾向を強く持っていた米国企業が利益の極大化を求めて国境を越えるGlobalization(=Global資本主義)の流れが鮮明になっていきました。

 ここに、多国籍企業がより労働力が廉価で調達でき、様々な規制もより緩い国に出て行ってしまう産業の空洞化が製造業を中心に加速し、米国企業が儲かることが、即ち米国の国益であり、米国民全体の収入が増加することとは必ずしも一致しないという現象が顕著になり始めます。英語を標準語としている米国の場合、空洞化は製造業にとどまらず、ある州が州民の照会に答える電話センターの行政サーヴィスを印度に移して問題になったというような極端な事例まで現れるようになりました。

 産業の空洞化に対して、時の労働長官を務めたRobert Reichは、「米国人がより高度な高等教育を受けて、高付加価値の産業に従事することによって克服する」として、教育の重要性を強調しました。教育は、確かに最重要の国家が注力すべき事柄ではありましたが、しかし、高付加価値化政策は、Reich自身が予言した格差の拡大を回避することがこれまでのところ出来ていません。むしろ、1990年代から格差拡大の問題を踏まえて登場したはずのObama大統領を擁する現在に至っても格差の拡大は続いています。

 その理由は、明らかで、そもそも米国のような人口3億人を超えるような大国で産業の空洞化が進む中、大多数の働き手が高付加価値の仕事に就けるはずがないからです。さらに怖ろしいいことには、IT技術の進歩により、低賃金でも高付加価値の仕事が出来る労働者が中国や印度などで大量に生まれ、米国の労働者は多くの分野でこれらの労働者との競争も余儀なくされています。


2.Global資本主義と対峙しているもの

 京大准教授の中野剛志先生によれば、Globalization、即ちGlobal資本主義と対峙しているもの、それは、各国の民主主義であるということになります。それはどういうことかというと、物及び役務の交易の自由化を進めるTPPやFTAのような協定は、条約であり、国内法に優越するということです。そして、条約の批准は、法律の立法措置に比べて容易に国会を通過できる仕組みになっています(註)。

 具体的には、民主主義の国会で制定された法律に基づいて施行されている排ガス規制が、自由貿易協定における非関税障壁に当たるとされて訴えられ、その争いに敗れた場合には、協定に合わせる形で法律を改悪したり、賠償金を支払ったりすることになります。即ち、自由貿易協定の自由度が高ければ高いほど、国民国家が自国民の健康を守るために制定した法律さえ、反故にしなければならない状況を生み出してしまうことを想定しておかなければならないということです。「遺伝子組み換え穀物使用の表示義務」又は「BSE対策で課している輸入規制」なども全てこの範疇です。

 Global資本主義は、民主主義に対する脅威そのものであって、「自由化」や「開国」といった美辞麗句で装飾してあったとしても、その本質を見誤ってはならないと思うのです。Globalizationの本家米国で起こっているWall街占拠事件もユーロ圏で起こっている財政危機もGlobal資本主義の行き着いた先での出来事であることに気付かなければなりません。

註)憲 法

第60条 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
2 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて30日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

第61条 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第2項の規定を準用する。

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人間の身体にはアプリが必要

1.人間の身体にはアプリが必要?

 最近、気付いたことがあります。それは、人間の身体の動きの本質が、人間以外の動物のそれとはかなり質が違うのではないかということです。例えていうならば、人間の身体は、ソフト又はアプリを入れて始めて機能するPCやSmart Phoneのようなものであるのに対して、人間以外の動物の場合、程度の差こそありますが、通常の家電程度のものといえるのではないかということです。

 程度の差というのは、昆虫のような動物の場合、非常に家電的要素が強く、できる機能は生まれたときからほぼ決まっていて、最初から組み込まれた通りの動きだけの一生を終えることになります。その代わりに、天から与えられた機能だけみると、本当に傑出した力を発揮します。魚類なども、生まれたときから水中を遊泳することは、今工場で生産されて目の前にまかり出てきた電灯がスウィッチを押されただけで点灯するのと同じような感じといえばよいでしょう。哺乳動物になると、昆虫や魚類に比べ、多少は後天的な要素が入り込む余地があるのかもしれませんが、しかし、馬にしても、犬猫にしても、より人間に近い猿でさえ、上体を四足にのせて、かなりの速度で走ることが出来ますが、これなども後天的な訓練を積んで獲得した技能ではありえないわけです。


2.人間は不完全に生まれてくる?

 他の動物に比べると、人間の生まれ様は非常に特殊で、アプリが全く入っていないOSだけの状態でこの世に生まれ出てきます。人間は、言語活動など文化的な分野ははもちろんですが、身体の使い方も、両親をはじめ、他人や社会から学んで自分のものにしていくもののようです。言い換えれば、人間の身体活動には、元々明確な形で企図されているものはほとんどなくて、後天的にアプリが入れられて初めて機能するようなものばかりということです。このことは、立ち上がって二足歩行を始めること、自転車乗り、水泳、自動車運転から字を書くことまで、ほとんど全ての人間の身体活動について当てはまるのではないかと思います。

 なぜ、人間がそうなったのかという理由を考察してみると、ここでも「鶏が先か卵が先か」の議論は出てくる余地があるものの、おそらく、人間が何らかのきっかけで二足歩行をするようになり、二本の足で上体を支えることが日常化したために、余った両腕を使ってこれまで出来なかった様々なことを、「頭で考えて」試みるようになったことによるのではないかと考えられます。しかし、両手を使った新たな動作では、単純に上体を支えて歩いたり、走ったりする動作と違い、体幹を固定して小手先を器用に使うという必要が相対的に高まることになりました。このため、人間は体幹を固定して小手先を使う技術を高めましたが、一方で、脊椎及びその周辺の身体の奥にある筋肉を使った動きが、極端に衰退していったのではないかと推測することが出来ます。


3.身体機能は梃子の原理では高まらない

 体幹を固定して、両腕を中心に様々な身体運動を試みてきたことの代償として、犬猫や猿のような優れた身体能力を失ってきた人間ですが、それでは、優れた運動能力をどうして取り戻そうかと盛んに行われてきたのが筋トレです。これは、人間の身体を機械の骨組みのように見立てて、その間をつなぐ筋肉を増強すれば、増強するほど強い力が発揮でき、優れた身体能力に繋がるはずだという思い込みからきています。体表に近い筋肉が増強されれば、見た目もいかにも強そうな身体つきになることも、その思い込みに一役買ったのでしょう。

 しかし、肉体改造をしたあとの清原選手のことなどを思い出してみれば明らかなように、そして、猿回しの猿の身体つきと運動能力を想起してみれば容易に分かることなのですが、優れた運動能力を発揮するのに必要なのは、体表の筋肉の増強ではなくて、身体の中に無数に潜む動かすことが自覚できないほどになっている筋肉群であることが想像できます。これらの筋肉は、主に脊椎と繋がっており、脊椎すなわち体幹を自由自在に動かして非常に効率の良い身体運動を作り出していくことが、動物的な身体能力の回復と深く結びついているのではないかと考えています。そして、動物的な運動能力の源がここで仮定したようなことであるならば、体表の筋肉を鍛える筋トレは、身体の中の筋肉を目覚めさせるためにはむしろ邪魔になると考えた方がよさそうです。

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石原慎太郎東京都知事について

 石原慎太郎都知事を爺さんと呼ばなければならないのは寂しいことで、なぜなら、それはすなわち自分自身がおっさんと自称しなければならない年齢になったということを、絶対的に認めざるを得ないということだからです。

 その石原知事が、大阪のW選挙の前日に大阪入りして、橋下氏の応援演説をしている様子の動画がYou TubeにUpされていたのを拝見しました。正直、爺さんになったなという感じで、今日の日本の政界で演説の上手さでは3本の指に入るであろう橋下さんに比べると見劣りがする押し出しであったことは隠しようがありません。ご本人も、前回の都知事選挙は、120%出ないつもりだったとおっしゃっていましたが、年齢による衰えを自覚しておられたのでしょう。

 しかし、改めてこの人が東京都知事で良かったな、石原さんはいいなと小生は思いました。石原知事は毀誉褒貶の多い政治家で、余りに正直なので、宰相の器ではないとは思います。また、金融関係は苦手なようで、外形標準課税で都市銀行と戦って敗北したことや、新銀行東京でしくじった失政は、見逃してはならないと思います。

 そういった負の要素にもかかわらず、福島原発事故の現場で某海江田から理不尽な扱いを受けたと聞く東京消防庁のハイパーレスキュー隊の帰還を涙で出迎えた姿や今回義憤に駆られて大阪に応援演説に出かけた姿などは、正直心を打たれました。やはり日本人の指揮官は、部下に無限の愛情を注ぎ判官びいきでなければいけないと思います。いまや石原知事は、老体に鞭打って、日本人の在り方の一つの見本を見せてくださっているのでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=ohoLVTyOMlQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=WrUyXVJXpqI&feature=related

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相撲と野球はもう終わってるな

 驚きました、本日昼の報道で「稀勢の里、大関昇進確実」の報道が流れたことに。何か、相撲協会の不文律では3場所の成績で見ると、あと1勝、つまり、千秋楽の大関琴奨菊戦で決まるということだったんじゃないでしょうか。稀勢の里は、白鵬の連勝記録達成を阻止した大相撲の功労者でもあり、日本人力士で唯一白鵬に通用する逸材なので、不文律なんぞ関係ねーということならば、それはそれでいいでしょう。しかし、たった10勝で大関昇進を果たすのか、 なんだそれは?? 

 そして、さらに問題なのは、ライヴァルであると同時に仲間である稀勢の里の大関昇進がかかった大一番を、新大関琴奨菊が心の葛藤を抱えながらどう戦って見せるか、相撲好きならば誰しもが興味を持つ心のドラマを台無しにしてくれたことです。新大関にとっても、楽な気持ちでライヴァルとの決戦に臨めるようはからったというよりは、むしろ大関の器量を結果として軽んじることになる失礼な発表だったと思います。

 日本人大関の久々の誕生で、多少とも息を吹き返せそうな状況でしたが、どう見ても相撲協会の中枢部は非常識な馬鹿ぞろいで、未来に希望はどう転んでも持てないことを痛感させられた出来事でした。

 そして、プロ野球は、今ここで地上から消滅してもらいたい球団が、非常識なことに日本シリーズの最中に発表した内紛劇とその後の混乱が未だに続いており、見るに堪えません。そんな球団に入るために浪人を決めた愚かな若者のことが、いまや多少とも憐れに感じられます。

 かつて、「×人、○鵬、玉子焼き」と謳われた野球と相撲の2大観戦スポーツの行く末が見えた今年一年でした。

 さて、本日開票の大阪W選挙の結果はどうなっていることやら。天気にも恵まれて投票率が高かったようなので、橋下前知事と維新の会の勝利は、ほぼ確実ではないかと予想がたつのですが...。

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