視力回復と3D

長いこと0.0台の近眼である。この位だと、まともに眼鏡で矯正する場合、物が小さくなったり、端がゆがんだりする。そのため、コンタクトレンズを使用していた。

しかし、コンタクトレンズの使用をほとんど停止して一年半程になる。建築士のカイフさん(多分「回復」と言う意味でカイフなんだろう)と言うハンドル名で発信されている、視力回復訓練のMail Magazineに出会って以来、氏の推奨する3Dによる回復訓練を続けているからだ。

この視力回復訓練法は、1.平行法および交差法による3Dの立体視をしたまま、何十回も前後に絵を動かして硬直している目の筋肉のリハビリをする。2.目を疲れさせないように、TVなどは、Eye Glassesを使用して見るようにする。基本的には、この2点だけで、単純明快なものである。

単純明快なだけに続けやすい。また、回復まで時間はかかり、即効性はないが、しかし、効果はあるようだ。小生は、「3D Flowers」(廣済堂出版)を使っているが、これを始めた頃は、一部の絵で眼の筋肉が確かに動かされている感じで、涙が出てきた。未だ、PCを裸眼で読むまでには至っていないが、一年半に及ぶ朝晩の訓練で、0.1位までは回復してきた気がしている。その上、訓練を始めてから、目薬を使おうと思うことがなくなった。極度の眼の疲労というものが、消え失せたのだ。

とこれを書く気になったのは、つい先日、それまで平行法で見ていたFlowersの3Dの隠し絵のいくつかが、交差法でも見えるようになったことがきっかけだ。それまでは、平行法は、対象が周囲から浮き上がって見え、逆にj交差法では周囲が浮かび上がり、対象は沈んで見えると言うような解説は聞いていたが、Flowersの本では、隠し絵については全て平行法により、交差法訓練用には、2枚綴りの写真が別途用意されていたため、隠し絵が交差法で見ると周囲が浮かび上がり、対象は沈んで見えると言うのは何かの間違いだろうと勝手に思っていたからだ。

ところが先日、そういうこともできるのかなと言う具合に、試してみたところ、それまでなかった絵が飛び出してきて、真ん中にある対象物の珈琲茶碗が沈んで見えたのだ。訓練を始めて一年半余り、遂に交差法で隠し絵が見られるところまで来た。そして、近視は正しい訓練によってある程度は回復すること、そして、この訓練によって、老眼も相当程度の確率で防止もしくは発症を遅らせることができると確信した。

今は、来年0.2、再来年は裸眼でPCが見られる水準、つまりは、0.3以上と言う具合に、少しずつ回復させて、眼鏡のいらない眼にしようと中長期計画を立てている。

http://www2.odn.ne.jp/~aav52360/shiryokukaifuku.htm

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蒼穹のファフナー-その3-

「蒼穹のファフナー」、まだ後半のかなりの部分がGyaOで視聴可能だった今週、じっくりと考えながら再視聴を試みた。もう一度見てみたいと思わせるこの作品は、世間の評価が高くないようなので傑作とは敢えて言わないが、「超B級Anime」と言って差し支えないだろう。

Fafnerの物語では、操縦者である子供たちが次々と倒れてゆくのが特徴の一つで、特に終盤では、第22話のMk. Drei搭乗の咲良(さくら)がフェストゥムによる同化現象が進み、昏睡状態に陥ってしまい、第23話でMk.Funf搭乗の小楯衛(まもる)が攻めてきたスカラベ型フェストゥムと相打ちで戦死。そして、第23話ではマスター型フェストゥムに乗っ取られた人類軍のMk.Nichtの攻撃から島を守るためMk.Einで出撃した日野道生(道生は成人だが薬を打ってFafnerに搭乗)がMk.Nichtを道連れに自爆。脱出に失敗して彼の子を身籠っていた真矢の姉弓子を残して戦死と悲劇が続き、Ending曲の「Separation」歌詞2番が流れる。この悲劇の3話とひどく悲しげなEnding曲は、泣かせる。そしてそれに続く第24話には、日本人の死生観のようなものが凝縮されているようで、日本人ならば琴線に触れるものがある。

日野道生と言う、主人公真壁一騎などより年上の20代の若者は、一旦竜宮島を出て、人類軍の兵士として転戦した後、人類軍の竜宮島殲滅作戦を知って島に戻った人物である。Fafnerに搭乗するには歳をとり過ぎており、ぎりぎりの年代だが、恋人である遠見弓子が止めるのも聞かず、「次世代のパイロットが育つまで」とMk.Einで戦場に赴く。結果的に、道生はその戦いで弓子のいる島を守るために命を落とすことになる。

私は、この話に太平洋戦争における特攻隊を思い出してしまった。この時代若者たちは、決して軍に志願などした訳ではなく、時代の空気に強制され、徴兵されていっただけなのだという言い方がある。確かにその通りだったのかもしれない。しかし、日本人に西欧流の「自我」を求め、その土俵で話を進めることには、そもそも無理があるのではないかと思っている。日本人の死生観の中には、間違いなく家族や同胞を守るために死ねると言う自己犠牲の精神が強くある。この傾向は、確固とした「自我」を確立しない日本人の伝統とも関連があるのではないか。日本という温暖で比較的豊かな島国と言う環境では、他人と争い、略奪することは、限られた資源の浪費につながり、長期的にはそう言った型の人間は長い歴史の中で滅んで行ったであろう。それよりは、他人と協力し、農林業なり、漁業なりの生業を効率的に営む方がはるかに豊かになれる。また、長期的な繁栄を望むならば、子孫のために環境を破壊しない循環型の経営を図らねばならなかったはずだ。それが、四方を海によって外界から隔てられて簡単に移住を決意することが許されない島国に生まれた者の宿命と考えられるからだ。そのような前提条件が、長年に亘り日本人のDNAに刷り込まれ、国民性を形成してきたものと思われる。

確固とした「自我」が確立した社会は確かに大人の社会だが、そんな理想郷は世界の中にどれほど存在するのか。自我が歪んで強調されている社会では、人と人の争いが絶えないことになるのだろう。Fafnerの物語における宇宙からやってきた未知なる敵フェストゥムは、全体で一つの存在であり、もともと個と言う概念がない。他の生物と同化することを目的に行動する。これは、交響詩篇エウレカセブンのCoralianと同じような概念だが、フェストゥムはより攻撃的である。フェストゥムの攻撃(フェストゥムに言わせれば「祝福」なんだそうだ)によって殲滅された日本人の生き残りがフェストゥムの力まで利用して、その子孫と文化を守り、細々と暮らしていたのが竜宮島だった。結局竜宮島の最後の希望を託した「蒼穹作戦」がフェストゥムの殲滅を目論んだものではなく、フェストゥムに自ら同化してフェストゥムとの共存の道を探った一騎の母であり、真壁史彦の妻であった紅音(あかね)に共鳴したフェストゥムの核とその核が持っていると言う人とフェストゥムとの共存に関する情報を入手することだったことも実に日本人らしい発想だった。

最後に、好きな場面はたくさんあるが、中でも比較的印象に残っている場面を一つ紹介する。それは、第17話「生存」だったかと思うが、外の世界を見て島に戻って来た一騎が父史彦に「俺、一人で戦いたい」と口にする。「島を出て、随分とうぬぼれが強くなったものだな」と史彦。一騎は、道生の父日野洋治の設計した傑作Mk.Seinを洋治から受け取り、かつ、自身の高い潜在能力に目覚め、圧倒的な戦闘力を身に着け始めていた。「そんなんじゃないんだ。俺はもう誰にも死んで欲しくないんだ」一騎。「じゃ、お前が死ねばいいのか」史彦。その言葉にはっとする一騎。「さー、もっと食え」史彦、「これは、俺が作ったんじゃないか」、「父さんだって、昔は作ったさ」。これだけの会話に、息子一騎に対する父親としての愛情、そして一騎が無意識のうちに抱いていたうぬぼれをたしなめる気持ちなどが表現されていて、男親はこうでないとなと妙に納得してしまった。竜宮島の大人たちは、過酷な運命の中で、苦悩しながらも親として、大人としての役割を果たしていく人たちで、この作品に共感できた主な理由の一つに数えることが出来る。

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蒼穹のファフナー-その2-

現在GyaOで配信中の「蒼穹のファフナー」を第25話「決戦」まで見て、今夜見る予定の最終話を楽しみに取っておいたと言う状況。Wikipediaの解説を読むと、この作品はいろいろ問題があったことにも言及されているが、出来ばえは悪くない。個人的には評価の高い作品だ。GyaO配信中Animeの中でも、ここの所一番人気を走り続けているのが素直に頷ける。

Robot Animeを評価する項目として、第一に挙げられるのが「Robotによる戦闘場面の迫力」、第二に「登場人物の個性と彼等の織り成す人間模様の説得力」、第三に「物語の面白さや世界観の斬新さと説得力」に便宜的に大きく分けて考えてみる。

第一に挙げた点は、Robot Animeに固有の評価項目であることは誰にでも分かる。第三点も、そもそもSFから派生したRobot Animeには親和性のある項目とも言えるが、子供向け漫画から出発した事情からか手塚などが本質的に持っていた物語の哲学性などと言うことは、物質文明全盛の高度成長期などにはほとんど捨て置かれた状況が続いたように思える。途中、1970年代に永井豪の「Devilman」が異彩を放った事はあったが、Robot Animeにおいて本格的に宗教的・哲学的な世界観および問いかけを持ち込む試みは、1995年の「新世紀エバンゲリオン」(庵野秀明)の登場を待たなければならなかった。想像するに、Bubble崩壊をきっかけにして、日本における戦後の高度成長政策が完全に行き詰まり、万事を論理と金の力で律していこうとする底の浅い科学万能主義が閉塞状態に陥っていたのであろう。そんな時代の空気から、大衆の潜在意識の中に再び哲学や宗教に目を向ける傾向が現れ始めたことを敏感に感じ取った人たちがAnime製作者の中にも庵野監督を始めかなりの数存在していたのかもしれない。

「人間はなぜ存在するのか」、「この世界はどうして創られたのか」、「自分は何故、何をするために生まれてきたのか」と言うような問いかけは、江戸時代、つまり科学万能主義に汚染されていない時代の人間ならば、星空でも眺めていれば、子供のうちから自然に発せられた問いかけだっただろう。子供のときから自然にこう言った問いかけに親しんできたならば、科学的ではないにしても、大人になるまでに比較的まともで安定した世界観を形成することが可能だったろうと想像する。

ところが、現代人は、読み書きそろばんの実学的教育はあっても、こう言ったことをほとんど考えずに哲学の素養もないまま大人になってしまう場合が多い。その上、日本人一般は良くも悪くも一神教の教徒ではないし、伝統的な神話の素養も捨ててしまっている。こう言う土壌にいきなり科学万能主義に疑念を呈するような問いかけが為されるとどうなるか。ある者は、特定の科学とは言えないまでも、理知的論理的な思索を重ねて、哲学的な思考や人格を身につけるかも知れない。ある者は、神秘主義的傾向に走り、宗教的に目覚めるかもしれない。怖いのは、この傾向が極端に走って、Cultのような集団が発生してくることだ。

話が脱線したが、Evangelionが提示したRobot Animeに哲学的・宗教的な世界観を持ち込むと言う試みは、その後の日本のRobot Animeに多大な影響を及ぼし、EurekaseveNに見られる仏教を出典にしたと見られる世界観やFafnerのゲルマン系の神話を題材にした世界観などが物語りの根底に流れている。最早日本のRobotものにおける独特の世界観形成は、必須項目のようになっており、そのため物語は極めて複雑な構成になり、私などに言わせると大人の鑑賞に堪える面白さになっている反面、子供には少々分かりづらい作品が多くなっているようにも思える。

Fafnerは、舞台こそフェストゥムの攻撃によって壊滅的な打撃を受けた日本人の生き残りが移住した人工島である宮竜島であり、その島の核となっているのが人間とフェストゥムの中間的な存在である宮城乙姫(つばき)としているが、主にゲルマン系の神話から借用したと見られる世界観が底流にあるために、同じくキリスト教の世界観を持ち込んだEvangelionとの類似性が指摘されることとなった。この点が、比較的出来の良い物語構成にもかかわらず、必ずしも評価されてこなかった原因の一つになってしまっている。

また、第一の「Robotによる戦闘場面の迫力」、第二に挙げた「登場人物の個性と彼等の織り成す人間模様の説得力」の点で、金字塔とも言える作品は、もちろん第一作目の「機動戦士ガンダム」=First Gundamと言う点に異論は出ないと思う。Fafnerは、「Robotによる戦闘場面の迫力」の点で、Gundamには遠く及ばず、Robot(LFO)が舞台の惑星の大気中に流れるTraparに乗って波乗りのようなRefをやりながら戦闘を繰り広げると言うEurekaに見られるような斬新な工夫もなかったため、平凡な評価になるのはやむをえない。しかし、「登場人物の個性と彼等の織り成す人間模様の説得力」の点で、水準以上の出来ばえの良さは評価できると思う。この作品が結構泣けるのは、正にこの点にある。

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機動戦士ガンダム第08MS小隊-その5-

人間生きていると、怒ることもあれば悲しいこともあり、失望することもある。そういう消極的な気持ちに捕われた時、生きることの意味を考えさせてくれ、勇気を与えてくれる作品は、Animeであっても立派な芸術品なのだと思う。経済が停滞して、悪い時代になると、良い小説が生まれるとは、よく言われることだが、1990年代から停滞の15年間に、日本のAnimeは格段の進歩を遂げたと言ってよい。第08小隊は、1996年から始まる作品なので、正にそういう時代背景の中でGundamの系譜を受け継ぎながら製作された作品と言える。主人公アマダ・シローも軍隊と言う過酷な組織の中で理想主義を掲げて生きていく道を選んだが、それは茨の道であり、特にInah Sakhalinと再会してからは、Spy容疑をかけられ、辛い目にあっている。そんな彼を支え生きる意味を与えてきたものは、突き詰めていくとInahの存在そのものだったのだろう。

「震える山(前編)」でのNorris PackardのGoufとの死闘で、Inahこそ自分の生きがいそのものだと言う事を意識したシローは、InahのアプサラスⅢ出撃を知って、Inahを止めるためにEz8単機でアプサラスⅢの許へと向かう。この段階でシローにはInahのいない人生など思いもつかないものだったようで、軍規違反を全く意に介していない。Spy容疑以来、KarenとSanders Jr.には、シローの見張りと裏切りが分かれば銃殺するよう上層部から命令が出ており、KarenはシローにGundamの銃口を向けるが、結局彼女も命を賭けて恋人の許へと向かうシローを撃つことができなかった。26歳にして軍医だった夫を亡くし、未亡人になっているKarenの台詞。「男って奴はどいつもこいつも、あたしを置いて行っちまいやがる。シロー・アマダ、あんたはあたしが今まで会った最低の兵隊だよ。」と年下の隊長シローに恋愛感情とは行かないまでも戦死した亭主と同格の男と認める発言をしている。と同時に、シローの人間としての器が軍隊と言う組織の規格から完全にはみ出してしまったことを的確に言い表している。

一方、アプサラスⅢで出撃したGiniusとInahの兄妹は、かつてのように心が通じ合うことはない。あくまでも、傷病兵を乗せたケルゲレンを空に逃すことを優先するInahは、Mega粒子砲で威嚇攻撃をしただけで、一時休戦を呼びかける。一旦はこの呼びかけに応じたかに見えた連邦は、Sniperを用意させ、狂気に走る兄Giniusは勝手にMega粒子砲を発射。これを契機に連邦のSniperもケルゲレンを撃ち落し、NorrisとInahが命を賭して助けようとした多くの兵士たちの人命が失われることとなる。人並みをはるかに上回る量の感情を持つInahは、怒りに任せてMega粒子砲を敵本陣に向けて発射しようとする直前、Monitorに映るシローのEz8の姿が目に入り、我に返る。シローとの出会いによって変わってしまった妹に「愛など粘膜の作り出す幻想に過ぎない。」と言う名台詞を言い放つGinius。これなど、改めて本作品が成人向けのOVAであることを思い起こさせる台詞でもある。二人のやり取りから、兄妹は、父親とは死別だが、母親は二人を捨てて男の許に走った生き別れであり、この出来事が兄Giniusの性格の歪みに繋がった原因の一つであることが伺える。Inahは、兄Giniusに共に投降することを勧めるも狂った兄は妹をも銃で撃ち殺すと言う暴挙に出る。アプサラスⅢの操縦席から外に転落するInahを救出したシローは、銃撃されたInahを抱き、Giniusと対峙する。ここで、Inahが死んだと思い込んでMega粒子砲の攻撃に身を曝してしまえば、本当にGundam版Romio & Julietの完成だったが、それでは「10 Years After」と言う曲をEndingに選んでいるのと平仄が合わない。寸でのところでInahが意識を取り戻し、二人は、粒子砲の攻撃をかわすも、投げ出された衝撃でシローは右腕を骨折する。しかし、Inahは、兄Giniusから贈られた懐中時計を胸にしていたため、その時計に弾が当たり、一命をとりとめた。この辺りは、「震える山(後編)」も無理な展開と言えば無理な展開になっている。ところで、初回での最初の出会いでInahがシローから返してもらうのを忘れて以来、この時計が二人を繋ぐ重要な役目を果たして来たのは間違いない、第7話「再会」では、初めてInahを抱いた時、シローの胸にあった時計が鳴り出す。これは、病身の兄の世話をしていたInahが合わせた兄の投薬の時刻である午後8時であった。その時Inahの手許に戻った時計が、最終回ではInahの命を救い、その後兄との最後の別れを告げるように、銃撃を受けた時計の発信音が鳴り次第に消えていく。

極東方面軍連隊長、本作戦最高司令官のEthan Liarは、軍規違反を犯し単機で出撃したシローの銃殺を命じるが、直属の上司であるコジマ大隊長は、傷病兵を乗せたケルゲレンを撃ち落し、今また直属の部下を銃殺しようとする連隊長に反旗を翻し、Karen等にシローの逮捕を命じる。この時、「ジャブローのオフィスは快適だよ。」とコジマ大隊長を説得するEthanに対して、「私は、エアコンと言うものが苦手でしてな。」と切り返すコジマ大隊長の台詞は、第2話の台詞と平仄がぴたりと一致しており、この辺りはにくい演出である。実の兄から裏切られ、また、連邦軍から射殺命令が下った、Inahとシローは絶望的な状況の中で、アプサラスⅢのもたらす更なる殺戮を止めるべく、また二人が生き残るために、Ez8でアプサラスⅢに特攻をかけ、Giniusを操縦席ごと潰し、アプサラスⅢともつれ合うようにして、秘密基地のあった山の火口から転落する。その際Giniusが放った最期のMega粒子砲は、連邦軍本陣を直撃し、Ethan等幹部は別行動を取ったコジマ大隊長を除いて全滅。シローを除き全員生き残った08小隊の隊員たちは、隊長と口々に叫んで山頂へ駆けるのだった。

ここで、いつもの「10 Years After」ではなく、「未来の二人に」のEnding。この後まもなくして、戦争が終わり、結局シローは見つからなかった。しかし、Inahとシローが負傷した身体を癒していた一角と思われる場所が発見され、そこにはGiniusの亡骸が埋められたているとも思える手作りの十字架が映し出される。08小隊の隊員たちは皆、シローが生きていると信じている。そして、片脚を失ったシローと彼を支えるInahが光あふれる外界へと歩き出す場面で物語は終わる。

この物語の二つの主題の内、戦場において理想主義は成立するのか、と言うことの回答は、どうやら、「否」と言うことのようだ。シローは、左脚を失い逃亡兵として軍を去った。Inahに至っては、実の兄を自らの手で葬り、家族同様のNorrisは戦死、自らの命を賭して脱出させようとした傷病兵たちも皆殺しにされた。もう一つの主題、戦場での愛は、これらのあまりに重い犠牲の上に、結実された。今回の一連の放映では、予定されていないようだが、「Last Resort」と言う後日談が製作されており、戦後シローを探して旅に出たMichelとKikiがInahとシローの消息を追って最後に静かな山小屋に辿り着く。そこで穏やかに笑うシローと彼の子を身籠っているInahに出会うと言うところで終わっている。

思えば、Inahと言う女性の本質は、MAの操縦士などそもそも全く似つかわしくなく、母性と言う点に行き着くような感じがしている。病身の兄の世話を日常的に行っていて、看護士程度の知識と技量は持っていたようで、傷病兵の世話なども買って出ていた。そんな彼女だったからこそ、あの状況で片脚を失う大怪我をしたシローも生き残ることができたと言うことは一応説明がつく。そんな訳で、母親になると言うのは、彼女本来の姿に戻ったのかなと言う気が非常にしている。

一方、アマダ・シローの人間性も、器量が大きくて、勇気があり、そして、創造力に富むと言う父親としての理想の男であったのかもしれない。第08小隊は、間違いなく質の良い恋愛物語だったとは言えるのだろう。

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機動戦士ガンダム第08MS小隊-その4-

今週は、米国のVirginia工科大学で銃の乱射事件が起こった翌日、長崎市長が暴力団員の男に暗殺され、金曜日には町田で銃を持った暴力団員の立てこもり事件が勃発するなど、銃による事件が続いた特異な週であった。我々にできることは、「新宿鮫」を熟読することぐらいなのだろうか。

さて、今週は「震える山(前編)」。この回は、何と言ってもサハリン家の大番頭格ノリス・パッカードとGoufの話と言っていい。その前に本作品全般について、作品の出来の良さに繋がっている要因を二点。第一は、絵が丁寧で綺麗なこと。これぞ毎週放映という時間制限に追われないで満足の行くまで描きこめるOVA(2月6日「OVAとは何ぞや」参照)の真骨頂である。そして、生々しい地上戦、白兵戦を多く描いたのが特徴と言われる本作品ではあるが、その一方で、宮崎作品のような夢のある綺麗な場面も数多い。初回「二人だけの戦争」で、地球に赴任する途上、シローが宇宙から地球を見て「すげーよ、でっかいよ、きれいだよ、感動するよ、俺なんか」と思わず叫んだ地球。その後サンダースJr.のジムを救うためにBallで出撃し、アイナと戦いまた助け合った宇宙空間、第7話「再会」での遭難したアイナとシローの愛の舞台となったヒマラヤの山中の幻想的な美しさなど、数あるSunrise作品の中でも出色の出来ばえと言っていい。

そして、二番目は、米倉千尋の名曲「嵐の中で輝いて」を始め、挿入歌や挿入曲の出来の良さである。米倉歌う「嵐の中で輝いて」、「Ten years after」、そして「未来の二人に」は、全て女性の立場からのLove Songで、心優しいアイナ・サハリンは、シローに対して戦中、戦後こんな気持ちを抱いていたのかもしれない。

物語は、既に最終局面に入り、シロー等第08小隊の偵察行動によって、遂にZeonのラサ秘密基地をつきとめた連邦軍は、物量に物を言わせた総攻撃を開始する。圧倒的な物量作戦の前に手も足も出ないZeon軍だが、完成を目前に控えたアプサラスⅢに起死回生を賭けるギニアス。そして、アイナは、傷病兵らをSide3(Zeon)に帰還させるため、基地内で一人奮闘していた。そこに、Goufで戦場から戻ってきたノリスがアイナを見つけ、アイナが強くなったこと、そしてアイナを兄を説き伏せて自分が正しいと思う行いを貫くほどに強くしたのは、恋をしたからであろうというようなことを言う。意外な人に意外なことを言われたと言う顔をするアイナに、「心外ですな。自分とて木の股から生まれてきた訳ではないのです。」と言う名台詞を吐く。「親代わりのノリスのことを私は何も知らない。」と言うアイナの返答に、実の娘のように慈しんできたアイナに親と思われていることを面と向かって言われ、アイナの望みをかなえるために死を覚悟の最後の出撃を決意するノリスは漢であった。

結果的に、親と慕うノリスを出撃させてしまったアイナ。自分の運命を呪ってか、敵への憎悪からか、この時般若のような形相を見せる。この女性は美人なだけにぞっとします。おそらく、サハリン家の血は、ギニアスにしてもアイナにしても感情の量が他人より多く持って生まれてきている感じがします。従って、兄のようにそれが歪んでしまうと、とてつもなく歪んで行ってしまうと言う傾向にあるのかもしれません。また、人間の器が大きいシローがアイナに一目惚れしたのは、そのぞっとするような美しさも然ることながら、彼女の感情の量がシローの大きな器を満たすほどのものだったからとも言えるかもしれません。

戦場に出たノリスは、長距離高射砲を装備したGuntank3機を守っていた08小隊と交戦。傷病兵等を輸送するケルゲレンを地上から打ち落とす能力を有するGuntankを潰すために鬼神の如き強さを見せつける。シローのEz8さえ一度は彼のGoufの手に捕えられ、死を覚悟するシローであったが、アイナと再会して以来自らの戦う意味を見失って迷いを生じていたシローは、起動しない操縦席の中、ただ生きたい、生きてアイナと添い遂げたいと言う自分の真実の気持ちを探り当てる。彼の「気」が復活するのを待っていたかのようにEz8は再起動し、打撃を受けて使えなくなった左腕を自ら引きちぎって、これを武器にするという滅茶苦茶な攻撃を始める。この時狂ったように発した「俺は、生きてアイナと添い遂げる」と言う絶叫がノリスにも聞こえ、初めてこの男こそアイナの想い人であったことを知る。その衝撃で、一瞬気が緩んだノリスのGoufにシローが一撃を加え、Goufは一旦退く。「隊長が切れた。」とミケル、「悩むの止めた馬鹿はほんと強いもんだ。」とカレン。

このノリス・パッカードのGoufとシローのEz8の死闘が今回の見せ場の一つなのは間違いないが、一体Mobile Suitの操縦士同士の交信と言うのはどうなっていると言う設定なのだろうか。もちろん味方同士の場合、無線を使ったり、無線を使えない敵陣などでは、思念によるものがあるようだが、New Typeではないシローとノリスが何でこんなに簡単に交戦中に意思疎通ができてしまうのだろう。ノリスが最期に敵の操縦士アマダ・シローこそがアイナの恋人であると知って戦うことが展開上必要だったことは認めるが、論理的に説明がなされないと、単なるご都合主義に陥ってしまう。

ノリスは最期の力を振り絞って3機目のGuntankを仕留めるが、その際、シローに胴体をBeam Sabelで真っ二つにされて、息絶える。この時シローに対して直接攻撃を仕掛けず、敢えてGuntankを狙ったのは、本来の目的であると同時に、アイナのためにシローを殺すことを回避した行為だったのかもしれない。シロー自身も自ら負けを認め、ノリスに対して敬礼して敬意を表している。

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機動戦士ガンダム第08MS小隊-その3-

現在、東京MXで放映中の本作品も今週と来週が東南亜細亜戦線における連邦とZeonの最終決戦を扱う「震える山」で、正に最大の山場にさしかかる。サハリン兄妹の兄ギニアスは、アプサラス開発中止をほのめかしたユーリ・ケラーネ少将との通信装置の画面を銃で撃ち壊してしまったり、さらにその銃口を最愛の妹アイナに向けたりと、いよいよいかれてきたようだ。遂には、欧州戦線陥落で、ラサの基地に逃避行してきたケラーネ少将をアプサラスの開発を邪魔だてするものとして坑道で爆殺すると言う暴挙に出る。しかし、この暴挙によって、偵察行動中のシローらに、秘密基地の存在を知られることとなる。最早ギニアスの破滅へと向かう暴走を止めることは、実妹のアイナにも大番頭のノリス・パッカードにも不可能と言う状況に至っている。物語終盤を前にまとめておくと、アイナは、兄であり、おそらく残された唯一の肉親であるギニアスと恋人である連邦軍少尉アマダ・シローとの狭間で苦しんでいる状況だ。

アイナとシローが戦場で再会し、完全な恋人同士になる第7話で、アイナはいくつか意味深長な発言をしている。アイナが残していった懐中時計に隠されていた男性とアイナが一緒に撮られた写真を見て、アイナには恋人が居ると思い込んでいたシローにその人物が兄であることを告げ、その後、「兄は違うのです。」と涙ながらにこの言葉を発している。これは、「私たちとは、違うのです。」と言いたかったに違いない。つまり、この発言は、シローの告白を受け入れた直後に発せられたことからして、自分は最早兄の側の人間ではなく、シローが体現するような価値観の側に立った人間で、自分はシローの人格や生き方にこそ共感できることを確認した台詞とも言える。つまり、自ら開発の指揮を執る大量殺戮兵器で連邦を殲滅することにより戦争を終わらせ、ひいてはサハリン家の再興を成し遂げんとする道と理想主義、博愛主義を自らの命を賭して貫こうとする危なげで夢物語のような道のうち、彼女は後者を選んだと言うことだろう。

ギニアスとシローの違いは、一言で言えば、人間の器の違いと言うことになるのだろうか。ギニアスの方法は、科学の力に依存し、一見論理的だが、奪うことを専らにしたやり方で、他人の共感を得ることがない。シローの方は、青臭い理想主義ではあるが、いわば与えること、他人を生かすことを起点にしているために、彼自身傷つき、失敗を重ねながらも、結果的に他人を動かすことができる。凍傷に罹った身体を癒すために、そして、半分はアイナを脱がせるために、Gundamの兵器で湯を沸かして露天風呂をこしらえる場面で、この時点では既に、こう言う馬鹿馬鹿しいことを考え付くシローをむしろ好ましく思うようになっていたアイナは、シローの申し出を承諾する。芸術家的資質の強いシローは、「アイナは綺麗だ。まるで、人形みたいだ。」と素直にアイナの美しさに見とれているのだが、この言葉に過剰反応したのはアイナの方で、自分は「ギニアス兄さんの人形ではない。」と自らに言い聞かせるようにシローに訴える。病身の兄の手足となって生きてきたアイナは、ギニアスから自らの意に沿わない生き方を押し付けられ、心の平安を奪われていたのですね。

アイナを語る時に、忘れてはならないことは、この女性が名門貴族の出身ということだろう。世が世ならお姫様で、少なくともお嬢様育ちで、貴族としての価値観を持っており、庶民の倫理観で測ってはいけないということだ。貴族の本質は、血統の維持である。ギニアスは彼なりに、アイナはアイナで、そのことを潜在意識の中に持っていたに違いない。だから、理想主義に陶酔してしまって、危険の中に無防備に身を曝すシローのようなことはしないし、女性らしく現実をしっかり見据えていて、現実が見えなくなっているシローを守り、連邦に発見されたアプサラスⅡの機体を自爆させるなど、的確な処置をすることを決して忘れない。また、たかが二回きりしか会っていない男でも、シローが自分のために命を張れるKnightだと言うことは十分証明済みだったから、ごく自然に彼を受け入れたとも言えるのではなかろうか。

08小隊の出来の良さの一つは、初回から積み重ねられる、登場人物の人格描写の上手さにあり、非現実的な話であっても、しかし、こう言う人間だったらこのような行動に出るかもしれないと思わせる説得力にあると思われる。

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機動戦士ガンダム第08MS小隊-その2-

隊員たちがシローのことを、当初は馬鹿にして、後半になるとその人柄に親しみを込めて「アマちゃん」と呼んだりしているが、英語版だと、unmatured、amateurと言った具合に洒落るのだろうか?

さて、エルドア伍長という感度の良い耳を持った斥候を擁する08小隊は、早くからZeonの巨大新兵器の存在を把握しており、試験飛行を重ねるアプサラスを待ち伏せして攻撃を仕掛ける作戦に出る。砂漠の熱波の中、待つこと5日目にして、遂にアプサラスと遭遇。しかし、アプサラスに魅入られたように立ち尽くすミケルを救うためにMSで体当たりを仕掛けたシローは、ガンダムの左腕を損傷、同じく損傷を受けたアプサラスに取り付いたままヒマラヤと思われる高山地域まで制御の利かないまま飛行を続ける。そこで、アプサラスの操縦士があのアイナであることを確信したシローは、アプサラスの機体の上を歩いてその操縦席に近づくと、アイナが姿を現し、二人は2度目の戦場における邂逅を果たす。

アイナから予備のPartsをもらってGundamの再起動に成功したシローは、制御の利かなくなったアプサラスを不時着させるべく、Gundamの最高出力でアプサラスを支えるが、不安定な落下を止められず、アイナはシローだけでも生き残るよう離脱を勧める。しかし、ここで諦めて想い女(びと)を死なせるくらいならば、自分も共に死のうと離脱を拒否するシロー。この辺りは、シローが自分の思いに殉じることが出来る真の理想主義者ぶりが端的に表現されている。地上に着地しても停止しないアプサラスにもう後がないという瞬間、「アイナっ、好きだ」と自分の気持ちを告白したシロー。奇跡は起こり、アプサラスはぎりぎりの所で停止するが、シローのGundamは崖下に転落、辛うじて落下傘降下で難を逃れたシローは、砂漠での待ち伏せ時の装備のままであったため、吹雪の中意識を失ってしまう。

少なくともシローの装備よりは耐性の高いNormal Suitのアイナに崖下で救助されたシローは、凍傷に罹るも、アイナとつかの間の愛を確かめ合う。この二人は、元来「善」なる資質を多く持った人間として描かれてはいるが、それぞれの心には、超えなければならない大きな屈託があって、シローの場合は、Zeonに対する激しい憎悪、アイナは、兄ギニアスの手足になって意にそぐわない殺戮兵器の操縦を行っていることだった。シローは、アイナに出逢い、彼女を愛したことで、味方の兵士にしか向けられていなかったその博愛主義をより普遍的な立場に高めて行く、アイナは、シローと言う男を知って、兄の呪縛から自らを解放とうとするようになる。

ちなみに、Amazonの作品批評欄で「ヒロインのアイナ・サハリンは、おそらくガンダム史上最もピュアでキュート。」という志田英邦氏のコメントは、Gundam作品ほとんど見ていない私は何とも言えないが、アイナ・サハリンが男の立場からすると理想のヒロインの最高峰に位置すると言う点では、志田氏の意見に全面的に賛成する。しかし、アイナが自らの屈託を乗り越えるためには、シローと言う男が必要不可欠だったと言うところが、アイナ・サハリンの限界でもある。なんせ、この女性(ひと)は、子供のときはサハリン家の大番頭格のノリス大佐が父親代わりで、長じてからは、兄ギニアスと二人三脚で生きてきたわけで、娘時代から一人で自立して生きてきたセイラさんなどとは、違うのですね。しかし、これはこれでアイナの良さなのだと、私は否定しない。シローが極限状態の戦場で出遭ったにもかかわらず、一目惚れしてしまう必然性は、十分描きこまれていると言えます。

つかの間の邂逅から、Gundamが発した救難信号によってそれぞれ駆けつけた救助隊に保護されたシローとアイナを待っていたのは、軍の査問委員会でのSpy容疑に関する尋問と病の進行によって心をも病んで行く兄ギニアスからの容赦のない疑いの目であった。その中でも、二人の心は最早後戻りすることはなく、「敵の中にも良い人はいるのです。」と言う理想論を展開して、軍上層部の失笑を買い、兄の妹に対する疑いと憎悪を増幅させてしまう。

それぞれの屈託を克服したかに見えた二人だが、これからそれぞれの軍内部における二人の立場は、ますます困難なものになって行くことは容易に想像できる。物語りも佳境に入ってきた感じです。

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機動戦士ガンダム第08MS小隊-その1-

ここのところ忙しくて、なかなかBlogを更新する閑がない。Eurekaの英語編もご無沙汰しています。そんな中、一週間に一度、ビール片手にほっと一息しながら見ているのが、このMS Gundam 第08小隊です。この作品は、1996年から1999年頃にかけてOVA(2月6日「OVAとは何ぞや」参照)として製作されたもので、数あるGundam作品の中でも、戦場における理想主義が成り立ちうるのか、Romio and Julietoのような恋愛が戦場において何らかの意味を持ちえるのかと言った主題を取り扱った佳作であり、秀作です。

この作品の主人公アマダ・シローは、宇宙植民地の一つSide2の出身で、名前と容貌から推察するに、日本人若しくは日系人である。舞台は、Original Gundamと同時代の地球、東南亜細亜戦線であり、Zeonの攻撃によってSide2が殲滅されて以来、故郷を失ったシローは、Zeonを激しく憎んでいた。

しかし、シローは、生来の理想主義者であり、創造力に富んだ芸術家肌の一風変わった小隊長であった。08小隊に着任早々、理想主義者丸出しの「隊員の一人たりとも死なせない」と言う着任挨拶に、宇宙で着任途上のシローに危ないところを援護されたサンダースJR.軍曹以外はお手並み拝見を決め込む隊員たち。シローをその苗字にも引っ掛けて「アマちゃん」と呼び始める。

このシローの人物像は、必然的に科学万能主義を否定する立場につながり、彼の運命の女性アイナ・サハリンの兄であり、Zeon軍技術将校のギニアス・サハリンの科学万能主義とは図らずも対極を為すものになっている。Zeonの没落貴族サハリン家の出身で、優秀で容姿端麗なこの兄妹は、Zeon建国の父を父親にもちながら、ザビ家のZeon乗っ取りによって国を追われたシャアとセイラの兄妹を思い起こさせる。兄ギニアスは、金髪碧眼、妹アイナは、緑がかった銀髪に濃い碧眼と言う容貌から、Zeon建国時代の指導者たちは、独逸や北欧からの移民が中心だったのかもしれない。まあ、西欧の貴族が日本人の抱く典型的な貴族像ということなのでしょう。

第08小隊は、Original Gundamと同時代を扱った作品であり、Originalの外伝と言った位置づけなので、時代考証的に細かい点で筋が通らないと言う批判が、時にManiaから起こるようだ。例えば、シロー等が乗る陸戦型Gundam量産機の登場や、その性能がZakuに比べて強すぎるなどなど。しかし、それらの批判は、理屈や科学に偏った立場の批判で、この作品の本質を突いたものとは言えない。Originalの主題の一つである人の革新New Typeなど一切登場しないこの作品において、シローの強さは、彼の本質そのものである理想主義から来る心の強さであり、根性と創造力で機械にさえその性能以上の力を発揮させる「気」の強さなのである。天風哲学に言う「この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、嬉しい、そして調和した美しい世界なのだ。」と言う思想を体現した人物なのであって、自らの言葉を実行すべく、危険な作戦にも身を投じるが、隊員の誰一人として犠牲になることなく生還しているのは、彼が自ずと引き寄せる強い運気によるものなのだろう。その点についは、第2話あたりの早い段階でサンダースJr.が「この男の運の強さにかけてみよう」と言うような発言をしている。

シローの理想主義を曲げない生き方は、軍隊と言う組織と調和するものではなかったが、当初は彼と距離を置いていた女傑カレン・ジョシュア曹長など他の隊員の心を開かせ、08小隊は、次第に結束力を増して行く。この作品の主要な女性の登場人物は、アイナの他、隊員のカレン、民間人でゲリラの領袖を父に持つキキだが、年齢は、20台半ばのカレン、二十歳のアイナ、17歳のキキの順だ。面白いのは、目の描き方で、女傑のカレンはつり目、若いが気丈なキキは普通かややつり目気味、そして、しっかり者ながら受身の人生を過ごしてきたアイナはたれ目である。

アイナは、病身の兄ギニアスに代わって、開発中の新兵器アプサラスを操縦するPilotでもあった。アプサラスは、技術将校であるギニアスが戦果を上げるために、そしてサハリン家再興の切り札として、その開発に没頭する大量殺戮兵器であった。サハリン家再興のために病身を削る兄に対する負い目から、兄の思い通りに生きてきたアイナは、元々の優しい性格のためか、苦悩を抱えて生きてきたようだ。その彼女は、宇宙で地球に着任する途上のシローと干戈を交え、偶然が重なって、お互いの存在を知るようになる。MSに比べ大した戦闘能力もないあり合わせのBallを使って、思いもよらない攻撃を仕掛けてきたシローに、彼女のZakuは苦戦し、二人の搭乗機は大破して、脱出。二人は生き延びるために助け合う道を選ぶ。この際、シローは、アイナに一目惚れ、アイナも兄とは全く違う型の創造力に富んだ理想主義者シローに心惹かれるものがあった。その後、第7話「再会」で、再び戦場で相見えることになる。

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目標を常に百点に置くこと

今日近所の桜の名所をJoggingしたところ、昨晩の強風にもかかわらず、正に満開、百点満点の桜花かなだった。先週は、ある公認会計士の先生の簡単な講義を聴講した。要は、目標を掲げるならば常に高い目標を掲げよ、と言うことだったのだが、今後の生き方に大いに参考になったので、Blogに要点をまとめておく。

公認会計士にしても社労士にしても、士業などの資格試験において、これだけ取れれば合格圏というおおよその基準点がある。社労士で言えば、午前中の選択式では40点中25点前後、午後の択一は70点中、43点前後と言ったところなので、6割ちょっとでほぼ合格圏と考えてよいだろう。だから、資格の予備校などでは、基本問題、落としてはいけない問題をしっかり解く。8割以上の人間が誤答を書く難問、珍問、重箱の隅を突付く問題などは捨てろ、と教える。これは、効率的に資格試験に合格するという観点からすると、確かに筋は通っている。現に私自身、そのような効率重視の受験勉強を心掛けた。

しかし、講師はこの考え方を否定する。受験勉強は、試験に合格することだけを目的にすべきではない。第一に、そのような低次元の目標を掲げていると、なかなか合格点にさえ到達しない。第二に、そのような60点が取れる程度の知識では、実務で通用しない。実務では、百点でないものは80点や60点をつけてもらえることはなく、0点なのだ。だから、試験を受けている時から、例えば開業して実務で成功することを目標に掲げなければならない。そうすれば、自ずと百点を取るためにはどうするかと言う観点で勉強するようになり、爆発的に知識と実力が伸びるのだ、と講師は自論を展開した。

この話を聞いて、資格試験になかなか合格できない人、合格しても開業まで漕ぎ着けない、または、開業しても食っていくまでになれない者の問題点が雲が晴れるように明快になった気がした。と同時に自分のこれまでのやり方も反省しなければならないな。受講中の事務指定講習もしっかりとやっているつもりだが、百点にはまだ足りない。

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